「セビリヤの理髪師」。
名前は聞いたことがある、序曲はどこかで聴いた覚えがある──そんな方も多いのではないでしょうか。実際、この序曲は単独でも演奏会の定番となっていて、クラシックをあまり聴かない人でも一度は耳にしたことがあるはずです。
でも実は、このオペラの魅力は「有名なメロディー」だけではありません。音楽そのものに仕込まれた「じらしの美学」、そして幕が上がってから広がる人物たちの喜び。今日はそんなロッシーニらしい面白さを、改めて掘り下げてみましょう。
序曲 ― じらしにじらして、やっと爆発
ロッシーニの序曲を聴くと、まず驚かされます。
冒頭は「ドキッ」とするような強い和音で始まるのに、すぐに音楽は静まってしまう。そこで一息つかせるのかと思いきや、すぐに弦楽器が刻むリズムや木管の軽快なフレーズが少しずつ積み重なっていきます。
ところが──ここでなかなか「爆発」しないんです。
聴き手は「そろそろ来るぞ」「いや、まだか」と待たされる。普通なら「じれったい」と感じるはずなのに、不思議とワクワクが増していく。この仕掛けこそ「ロッシーニ・クレッシェンド」と呼ばれる技法で、反復を繰り返しながら少しずつ厚みと勢いを増し、最後にドーンと弾ける。
ポップスのように数分でサビまで一気に駆け抜けるのとは違って、「待たされる快感」を楽しませるのがロッシーニ流。面倒くさいようで、実はそこが楽しい。観客は「じらされてやっとの爆発」に大きな喜びを感じるのです。
幕が開けば ― フィガロのアリア
序曲が終わり、幕が開けば舞台は一変します。
そこに現れるのが万能屋フィガロ。「私は町の何でも屋(Largo al factotum)」というアリアで、彼は自分の多才さをこれでもかとアピールします。
「フィーガロッ!フィーガロッ!」という掛け声は、ただの自己紹介ではありません。
リズムに乗って次々と繰り出される言葉の洪水は、聴衆を巻き込み、舞台に一気に熱気を与える。ヘルマン・プライの歌唱(1972年アバド盤)では、誇張ではなく自然体のユーモアと快活さで、フィガロが“町の人気者”として生き生きと立ち上がります。
この瞬間、観客は「じらされた期待」が解き放たれ、音楽と笑いと人物の魅力が一気に重なり合うのです。
他の名場面も楽しみ
もちろん見どころはフィガロだけではありません。
- ロジーナの「今の歌声は」
可憐に始まり、やがて強い意志を見せる二面性。ロッシーニは女性を受け身に描かず、自立した存在として音楽に刻みました。 - バジリオの「中傷のアリア」
噂話が小さな風から嵐に膨れ上がるさまを模倣する風刺的名曲。聴衆は「そうそう!」と笑いながらも、その構造の見事さに唸ります。 - アンサンブルとフィナーレ
舞台上の人物が次々に加わり、混乱が膨れ上がりながら、最終的に秩序に収束する。ここでも「じらし」と「解放」が繰り返され、観客は笑いとともにカタルシスを味わいます。
名盤:アバド盤(1972年)
このオペラを聴くなら、クラウディオ・アバド指揮、ロンドン交響楽団による1972年の録音は外せません。
- フィガロ:ヘルマン・プライ
親しみやすさと自然体のユーモア。 - ロジーナ:テレサ・ベルガンサ
落ち着きと技巧を併せ持つ、魅力的な女性像。 - アルマヴィーヴァ伯爵:ルイジ・アルヴァ
端正で気品ある声。 - 指揮:アバド
序曲のじらしを徹底しつつ、テンポは引き締まり、ロッシーニの本質をスマートに提示。
録音も明晰で、オペラの舞台をそのまま家庭に持ち込んだかのような臨場感があります。
結び ― 喜びのオペラ
《フィガロの結婚》が人間模様の喜びを描いたとすれば、ロッシーニの《セビリヤの理髪師》は「生活の活気と笑いの喜び」を描いた作品です。
序曲のじらし、アリアの勢い、アンサンブルの混乱と収束──そのどれもが「待つことの楽しさ」「解放の快感」に満ちています。
ふだんは「長いな、じらされるな」と思う人でも、ここではその面倒くささこそが楽しさになる。
それがロッシーニの魔法であり、《セビリヤの理髪師》が今日まで愛され続ける理由です。
