ワーグナーって遠い存在?
クラシックにあまり馴染みのない方にとって、ワーグナーほど遠い存在もないかもしれません。
作品は長大で重厚、しかも題材は神話や伝説。オペラそのものがハードル高いのに、ワーグナーの作品はさらに宇宙の果てのように思える……私自身も最初はそう感じて敬遠していました。
でも、そんなワーグナーの中にも「意外と身近」に感じられる作品があります。
それが《ニュルンベルクのマイスタージンガー》です。
借金と亡命、苦難だらけの若き日々
ワーグナーは若い頃から波乱万丈でした。
革命運動に加担したことでドレスデンから追放され、亡命生活を余儀なくされます。パリでは楽譜出版社に見向きもされず、生活は困窮。借金取りに追われ、家族を養うのもやっとでした。
とても「大作曲家」のイメージとはかけ離れた姿ですね。
しかし、こうした苦難の時代にあっても創作の夢だけは諦めませんでした。
光が差したのは50代
転機が訪れるのは1864年。
まだ18歳のバイエルン国王ルートヴィヒ2世が、51歳のワーグナーの音楽に惚れ込み、庇護を与えたのです。生活はようやく安定し、音楽に没頭できる環境が整いました。
「遅咲きの作曲家」といわれるゆえんです。
50代になって初めて、思う存分作曲に取り組めるようになったのです。
運命の人、コジマとの出会い
もう一つ大きな出来事がありました。
それがフランツ・リストの娘コジマとの出会いです。
当時コジマは指揮者ハンス・フォン・ビューローの妻でしたが、ワーグナーと恋に落ち、やがて多くの非難を浴びながらも結ばれました。
彼女は精神的な支えであると同時に、ワーグナーの音楽活動を裏から支える存在となります。
創作の自由と愛情、この二つを同時に手にしたワーグナーは、ようやく心から「喜び」を味わえるようになりました。
唯一の喜劇オペラ
そんな時期に生まれたのが《ニュルンベルクのマイスタージンガー》です。
ワーグナーのオペラは多くが悲劇的ですが、この作品は唯一の喜劇。舞台は16世紀のドイツ・ニュルンベルクで、登場人物も市民社会に生きる人々です。
靴屋の親方ハンス・ザックス、恋する娘エーファ、若き騎士ワルター、そして歌の親方たち。物語は「歌合戦で勝った者が花嫁を得る」という分かりやすい筋立てです。
青春ドラマのように恋とライバルの対立があり、市民たちのドタバタもある。ワーグナー作品の中で最も人間味にあふれた舞台といえるでしょう。
「あ、これ聴いたことある!」序曲
《マイスタージンガー》といえば、まず序曲。
堂々とした「親方たちの主題」に始まり、愛を思わせる柔らかな旋律、祝祭を告げる明るい行進曲が展開されます。そして最後にはそれらが重なり合い、壮大なクライマックスへ。
映画やテレビで耳にしたことがある方も多いはずです。
「ワーグナー=難しい」というイメージを払拭してくれる、最高の入口がこの序曲です。
ドタバタと哲学の両立
物語は単なる恋愛劇にとどまりません。
背景には「伝統と革新の対立」というテーマがあります。古い規則に縛られた親方たちの世界に、新しい歌を求めるワルターが挑戦する。
その対立を調停するのがハンス・ザックス。伝統を尊びながらも新しい才能を見抜き、若者を導く存在です。最終的にワルターは新しい歌を完成させ、祝祭広場で勝利を収めます。
青春の勝利であり、芸術の革新を示す物語。ドタバタ喜劇でありながら、深い哲学が同居しているのです。
聴きどころの数々
《マイスタージンガー》には数々の聴きどころがあります。
- 第2幕の乱闘場面:市民や徒弟たちが入り乱れて大騒ぎ。音楽の厚みに圧倒されます。
- 第3幕冒頭のザックスのモノローグ:「妄想!妄想!至る所に妄想!」と歌う独白。哲学的でありながら人間的な温かみを感じます。
- 第3幕祝祭広場:市民たちの行進と合唱が繰り広げられる壮大なフィナーレ。青春の勝利と芸術の喜びが一体となります。
クラシックファンでなくても、舞台の勢いと音楽の楽しさを感じられるはずです。
ドレスデンの伝統とワーグナー
ここで欠かせないのが、ドレスデン国立歌劇場管弦楽団の存在です。
16世紀に創設されたドイツ最古級の劇場オーケストラで、ワーグナー自身がかつて楽長を務めました。
《リエンツィ》《さまよえるオランダ人》《タンホイザー》など、彼の多くの作品がここで初演されています。「ドレスデンの響き」は、ワーグナー音楽そのものの代名詞といえるでしょう。
柔らかく重厚でありながら、透明感を失わない音色。これはこの楽団が代々守り続けてきた美質です。
ティーレマンが蘇らせるワーグナー
現代にこの伝統を受け継いでいるのが、指揮者クリスティアン・ティーレマンです。
彼は現代屈指のワーグナー指揮者であり、バイロイト音楽祭でも重要な役割を担ってきました。
ティーレマンの特徴は、テンポを落ち着かせ、音楽を大きな建築物のように積み上げていく解釈です。細部を急がず、全体の構造を明確にする手腕に定評があります。
2020年のザルツブルク復活祭音楽祭で、ティーレマンとドレスデン国立歌劇場管弦楽団が上演した《マイスタージンガー》はまさに圧巻でした。序曲はゆったりと始まり、最後に壮大なクライマックスを築き上げる。その流れは作品の本質を余すことなく伝えています。
ハンス・ザックス役のゲオルク・ツェッペンフェルトは知的で温かみある存在感を放ち、ワルター役のクラウス・フロリアン・フォークトは透明感ある声で若々しさを表現しました。まさに伝統と革新が響き合う舞台でした。
「遠い存在」から「身近なワーグナー」へ
《ニュルンベルクのマイスタージンガー》は、ワーグナーの中でもっとも身近に感じられる作品です。
青春とユーモア、人情味あふれる物語。そして「伝統と革新」という普遍的テーマ。
遅咲きのワーグナーが、成功と愛を手にしてようやく書き上げた喜びの音楽。
それをティーレマンとドレスデンの演奏で聴けば、「遠い存在」と思っていたワーグナーが、不思議なほど近くに感じられるはずです。
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